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小一領神社の歴史/小一領神社

小一領神社の歴史

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小一領神社の歴史

  • 由来

    由来

    天文五年(1536)大宮司阿蘇惟豊公は嫡男の千寿丸(のちの惟将)を十七歳で初陣総大将に奉じ、御船城主、御船房行の謀反に対して、数千の軍勢を率いて出陣する折(十一月十日)、「柳本大明神」で戦勝を祈願して、「小型の鎧一領」を奉納し、出陣式を境内で行った。

    この時、庄屋の井手清右衛門尉豊宣(せいえもんのじょうとよのぶ)が、酒肴を整えて、赤飯の握飯を千寿丸初陣の祝いとして献上した。

    千寿丸の介添え役だった甲斐親直(ちかなお)は、扇を開いて立ち上がり、「いで(井手)やいで、御船の城の敵の首わが手の内に握飯かな」と舞いながら喝えると、一同はやんやと喝采して大いに士気が高まった。
    そして、法螺貝が鳴ると、喊声をあげて御船城をめざし進撃した。

    親直(のちの宗運)が、みごと房行を打ち滅ぼし凱旋すると、惟豊公は今度の戦勝は「柳本大明神」のご加護の賜物として、社殿を造営し八十町を社領として寄付した上、社号を「小一領大明神」と改称された。

  • 創建と阿蘇家

    創建と阿蘇家

    實仁二年(1018)、阿蘇友仲公により、宮原(浜町)に阿蘇神社の末社として、「柳本大明神」(やなぎもとだいみょうじん)の名で創建されたと伝わる。名前の由来は神社の横に大きな柳の木があったためだと云われている。

    阿蘇家は、国家形成前から連綿と続く家系で、天皇家、出雲大社の千家とともに御三家と呼ばれている名家で、大和朝廷より国造(くにのみやつくり)に任ぜられていた。

    御祭神の名は、初代の天皇である神武天皇の孫にあたられる健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その妃の阿蘇津媛命(あそつひめのみこと)、お二人の子供の國造速甕玉命(くにのみやつこはやみかたものみこと)の三柱の神々です。

    阿蘇家の最盛期は天文十八年(1549)頃で、その時の大宮司の阿蘇帷豊公は従二位に叙せられている。その所領は肥後の大半を占めるほどで、矢部はその中心地だった。

  • その後の小一領神社

    その後の小一領神社

    天正十三年(1585)阿蘇家が島津氏の侵略を受け、その後、豊臣秀吉の九州征伐で島津家は追い払われたが、阿蘇家の所領が復帰することなく、天正十六年(1588)、佐々成政に続いて、小西行長が肥後半国の国主となるとキリシタン家臣だった結城弥平次(やへいじ)が矢部城(愛藤寺城)の城代となり、小一領神社もほかの神社仏閣と同様に焼き払われたと伝わる。

    そして、慶長五年(1600)加藤清正が国主となり、慶長十八年(1613)初代矢部郷の大庄屋に任命された、井手玄畜充政次(げんばのじょうまさつぐ)により元和七年(1621)に現在の地に再建された。

  • 通潤橋(つうじゅんきょう)の歴史

    通潤橋(つうじゅんきょう)の歴史

    通潤橋を造る際のモデルになったのが左側の写真です。

    小一領神社の境内の橋で模型を造り、その後惣庄屋「布田保之助(ふたやすのすけ)」が、1854年に”肥後の石工”たちの持つ技術を用いて建設した石橋です。

    今では国の重要文化財にも指定されており、日本最大級の石造りアーチ水路橋で、放水景色は圧巻です。

    今でも、橋の上部にサイフォンの原理を応用した3本の石の通水管が敷設され、周辺の田畑を潤しています。

  • 小一領神社

    〒861-3518 熊本県上益城郡山都町浜町251
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